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生まれ替わり▶ 記事一覧

顕幽(この世とあの世)二つの世界が、日本では、互いに近く親しかったことを説くために、最後になお一つ言い落としてはならぬのは、「生まれ代わり」、すなわち時々の訪問・招待とは別に、「魂」が「この世」へ復帰するという信仰である。

これは漢土(中国)にも早くから、濃く行われている民間の言い伝えであり、仏教はもとより「転生」(=次の世界に生まれること。輪廻転生。)をその特色の一つとしているのだが、そういう経典(お経)の支援があるということは、必ずしも古くあるものの保持に役立たず、却って斯邦(この国)だけに限られているものを不明にした嫌い(好ましくない傾向)がないでもない。

書物を読んでいると、いずれの国のことかわからず、そっくり持ってきても通用しそうな話ばかりが多いが、なお眼の前の社会事象の中には、差別を立て得る資料が少々は伝わっていそうに思われる。

一つの要点は「六道(死後に転生する天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の6世界)輪廻」、「前生」の「功過」(営業と悪業)によって「鬼」にも「畜生」にも堕ちていくという思想は日本にはなく、シナ(中国)があるいは輸入国ではなかったか、とも見られる。

わが国では人の「霊」が木に依り、巌を「座」(依座。よりまし)とするのは祭の時のみで、物にもそれぞれの「タマ」はあると見ていたが、それが人間の方から移っていった(転生した)、ということを考えている物は、今でもそう増加してはいない。

それから「修行」(仏道修行)の累積をもって、段々と高い世界に進み得るということ、これは私のいう「みたまの清まわり」、すなわち「現世」の「汚濁」(けがれ)から遠ざかるにつれて「神」と呼ばれてよい地位に登る、という考え方とは同じものでない、と思うわけは、前者(仏教)はいかなる世界へでもなお「個人格」を携えあるくのに、こちら(固有信仰)はある期間が過ぎてしまうと、いつとなく大きな「霊体」の中に「融合」していくように感じられる。

この点は、私の力では保障することができぬが、ともかくも「神」と祭られるようになってからは、もはや「生まれ替わり」の機会はないらしいのである。

これらは消極的な否認に過ぎぬから、証拠が出てくれば、また言い方を更えなければなるまいが、一方には、もっと具体的に今なお国民の間にほぼ認められている諸点は、いずれもよその国とかなりちがっている。

その一つは、生きている間でも「身」と「魂」とは別のもので、従ってしばしば「遊離」する。それが一種の「能力」のようなもので、成長してからも「魂」が独り遠く行き用を足してくる、という人が折々はあり、ことに「死」に先だって「逢いたい」と思う人を訪れる、という話は多い。

夢に「飛びあるく」と見ることのできる人を仙北(秋田)では「飛び出まし」(飛び魂)といい、死前に「人を訪うもの」を津軽(青森)では「あま人」と呼んでいて、いずれも一方には、それを見る力をもった者が職業の徒以外にもあった。東北以外でもこの話はよく聴くが、今では皆これを「死後の霊」に限るごとく考えているのは一つの変化であろう。

しかし、大体において「魂」の、生き身を離れ易いのは小児であり、それを防ごうとする「呪法」も数々あったのみならず、小児にはさらに、「魂」のまだ入り込まぬ時期がある、とさえ考えられていた。

中国の各地では。「宮参り」の日に「魂」を「産土神」に入れてもらう、といい、またはその日の「御神楽」の太鼓の音によって、赤子に「性根」(たましい)が入るとも「魂」を授かるとも信じている村々は多い。

すなわち「魂」は、「土地の神」の管理したまうものであって、「体」は、そのために始めて「大切なもの」になることは、ちょうど仏像の「入眼」(開眼。仏像に眼を入れて、魂を迎え入れること。)と同じく、現にまた、船でも家でも、また祭の日に「神輿」でも、すべて「ウブ」を入れる、「ウツツ」を入れるなどと、「宮参り」の小児の場合と同じ言葉を用いているのである。

「人を神に祀る」という信仰のもとは、もうこの時から備わっているので、順次に進級していくのではなかったようにも考えられるが、この点はまだ明らかに言い切ることが私にはできない。

 

 

 

(新訂「先祖の話」 柳田國男著 石文社より)

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