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墓所(はかしょ)は祭場▶ 記事一覧

墓所(ぼしょ・むしょ・はかどころ)は一つの屋外の「祭場」であって、これと「氏神の社」とは、神仏の差では決してなく、もとは「荒忌のみたま」(死後間もない霊魂は祟る危険性があるため、死んだ年を荒年といって遺族は身を慎み忌に服して荒魂を祭る。)を別に祭ろうとする、「先祖の神」に対する心づかいから考え出された隔離ではなかったか、ということを述べてみたい。

死後にわれわれはどこに行くか。または、「霊魂」は、日頃はどこに留まっているか。

それはとうてい、知り究められぬとしても、少なくとも前人(昔の人)は、通例(みんながやっていた習わしとして)どう考えていたろうか。

この点が、今日では、そう悠長な閑問題(なおざりにしてよい問題)ではなくなっており、しかも無意識ながらも、なおわれわれの行動を支配(左右する)せんとしている。

その考え方にも、もちろん変遷があり、どれが最も多いかまた古いか、ということを決するのも容易ではないが、ともかくも、まるまる考えてみないという人を除けば、墓へ、土の下へというのがわが国では最も新しい考え方で、それは主として盆の「魂迎え」(死者の霊魂を迎える)に墓所から「精霊」(死者の霊魂)を誘導してくる風習に支持せられている。

もっともその以前にも「地下」を「あの世」とみる観念は、書物(例えば『古事記』)にも見えている。

また生前の姿のままで隠した場所をもって「終の住家」のごとく想像する者もあったではあろうが、実際のところは、日本人の「墓所(むしょ)」というものは、元は「埋葬の地」とは異なるのが普通であった。われわれの調査団などでは、当たらぬ名かも知らぬが、この風習を「両墓制」と呼ぶことにしている。

すなわち一方は、「いけ墓」「上の墓」また「棄て墓」とさえいう土地があって、多くは山の奥や野の末、人の通らぬ海端などに送り、やがては不明になり、またそうなるのを「好い」としているところもある。

これに対して他の一方には、「参り墓」「祭り墓」もしくは「内墓」とも「寺墓」ともいうのがあって、多くは寺に託し、また参拝に都合の好い設備をしている。

遺骸を永久に保存する慣行が、一部、上流の間に存したことは確かであるが、これと同種の葬法は、民間には行われず、しかも石を彫刻して記念とする風も一般ではなかったので、中古以前の常人の葬地は、その痕跡がはなはだかすかなのである。

いわゆる「両墓制」の普及する前後には、二種の「単墓石塔などの下に土葬する墓制)があってこれと対立していた。

その一つは、葬送のみがあって碑を建てぬ場合、これにも樹を植えたり石を置いたりして標示をしていたのかも知らぬが、それを記憶する者が大体なくなる頃には、自然にその場所も忘れられてしまうのである。

千年以上も使用せられた京都四周(周囲)のいわゆる「五三昧」5ヶ所の墓地・火葬場。鳥辺野・蓮台野・中山・最勝河原・四塚。)が、あれくらいの小さな面積で間に合った理由は、人は肉体の消滅を避くべからず、としたのみか、むしろ消滅によって「霊魂」の去来を自由にしたい、と願っていたからではないかと思う。

葬法の変化は、主として新しい都市、または人口の、日に加わるべき生産地に始まったもののようである。こういう土地では、始めから共同の「埋葬地」を区画せず、個々の「廟所」(家の敷地内や私有地の専用墓所)をもって直接に「収蔵」の用に宛てた。

この第二の「単墓制」は、結果において、却って土地の大きな費え(無駄使い)となり、わずかな年代を重ねるうちに、整理しがたい紛乱(混乱)の相を呈したのみならず、一方にはまた、われわれの「先祖祭」の方式をやや不明にした。

同じ関東の平野の間でも、今なお墓前に簡略な「棚」を設けて、盆には参って「ほかい」する村があるのに、、東京などでは「盆中は墓は空家だ」と考えて、これを省みる者がないのである。

「祭場」をおいおいに家の中に移したことは、祭を懇ろにする人情の表れ、ともみられるが、墓を「祖霊の宿り」のごとく考えながら、これを「迎えに行く」という「十三日の祭」はあって、十六日早天(明け方)の「盆送り」(魂送り)に、「墓へは参らぬ」という不審を抱く者もなくなっている。

つまりは「石塔」がまた一つの古い「霊位」(ここでは位牌の意)であって、盆にはもと、ここへ「みたま」を迎えて祭ったのが、あとあと第二の「祭場」を家の廻りに設けることになって、それがようやく不用になりかけていることを知らぬのである。

しかし外国思想の影響というものが問題になるとすれば、この「埋葬地」の礼拝などはその最も徹底したものの一つであった。

「石碑」(墓石)はもともと「墳墓」ではなかったのだが、両者を一つにする習わしが偶然に盛んになったために、古来の葬法が、何か「粗暴なもの」のように感じられ、「孝子」(孝行な子)「貞女」(貞節な女)の、墓に対する考え方が、よっぽどシナ(中国)などの風に近くなってきた。

そうして死の連想からできるだけ早く離脱して、清い安らかな心で故人の霊に対したい、というような願いを抱く者が昔は多かったことまでが、もう段々と不可解な話になろうとしている。

「神」と「先祖」との間には越えがたい境の溝、またはいくつもの段階ができた。

どうして「氏神様」の「みたまのふゆ(加護)」が、特に「氏子」(産土神の庇護下にある土地に住む人々)にばかり篤いのか、ということを説明し得る者が、もう少なくなったのもやむを得ない。

 

(新訂「先祖の話」 柳田國男著 石文社より)

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